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エジプトで民衆デモが最大の盛り上がりを見せていた2月3日、ヒューマン・ライツ・ウォッチの上級調査員ダニエル・ウイリアムスが、エジプト軍に拘束されました。エジプト人権団体の先駆け的存在であるヒシャム・ムバラク法律センターにエジプト軍が急襲し、活動家たちを一斉に逮捕したのです。ヒューマン・ライツ・ウォッチはただちにその一斉逮捕を非難し、ウイリアムスはもちろん、逮捕されたエジプト内外の同志たちの釈放を求めました。結果、2日たたずに、28名の活動家とジャーナリスト全員の自由を回復することができたのです。

2月3日の午後、ヒシャム・ムバラク法律センターの入り口付近に群衆が集まりはじめました。ウイリアムスは、同じくカイロ入りしていたHRW緊急事態担当ディレクターのピーター・ブッカーに電話し、回線をつないだまま携帯電話をポケットに忍ばせました。まもなく、エジプト軍憲兵隊が同センタービルを急襲。ブッカーはアラビア語通訳とともにその様子を(回線を通じて)注意深く見守りました。センター内にいた人びと全員が手を頭の後ろに組んだまま床に座らされている間中、エジプト軍の兵士たちは窓を破壊したり、暴言を叫んだりしていました。

白いプラスチック製の手錠をかけられ、HRWのウイリアムスのほかにも、アムネスティ・インターナショナルの調査員2名や、エジプト内外の人権活動家とジャーナリスト20名以上が拘束されました。兵士たちはコンピューター、財布、現金、パスポート、書類を押収。その中のひとりは、ウイリアムスはイスラエルのスパイだととがめ、もうひとりは彼がガムをかんでいたという理由で後頭部を繰り返し殴りました。

28名は、10時間にわたりヒシャム・ムバラク法律センターに拘束されました。その後、一行は、敵意に満ちた群集のなかを行進させられ2台のバスに分乗されました。行き先はカイロ北東部の軍事基地内にある第75収容所。到着後は、手錠をはずされた代わりに今度は目隠しをされ、ウイリアムスたちは尋問を受けました。ウイリアムスはその後24時間もの間、コンクリート上で目隠しをされたまま、わずかなパンと水のみを与えられただけでした。早朝には、苦痛の叫びが収容所内に響きわたっていました。また、ウイリアムスが再び携帯電話を使おうとしたのを看守が見とがめ、バッテリーを抜き取りました。

その一方で、ブッカーはすでにヒューマン・ライツ・ウォッチのカイロ事務所、ロンドン事務所、ワシントンDC事務所、そしてニューヨーク本部のスタッフを総動員して、一行の釈放に向けた行動を開始していました。ウイリアムスの家族に状況を伝えた後ただちに、ヒューマン・ライツ・ウォッチはプレス・リリースを発行。一斉取締りを強く非難し、拘束された人びとの安全な即時釈放を求めました。HRWのブッカーは在カイロのフランス大使館、イタリア大使館に状況を訴え、大使館員が暴徒に襲われて封鎖状態になっていた米国大使館とも連絡を取り続けました。ワシントンDC事務所では、ヒューマン・ライツ・ウォッチのスタッフと、HRW国際理事会メンバーたちが米国の国防省やマイク・マレン統合参謀本部議長に連絡を取り、エジプト軍に対する圧力を強めるよう求めました。

翌朝、ムバラク法律センターのエジプト人弁護士数名が、拘束された人びとの状況を把握するために第75収容所を訪れましたが、看守たちがさっそく面会を拒否。

この頃になると、ヒューマン・ライツ・ウォッチ国際理事会のメンバーが、エジプトのビジネス界に影響力を持つ人びとに連絡をつけ始めていました。その中のひとりの働きかけによって、エジプト外相が「国際的な衝突を避けるために」一刻も早い一行の釈放に努めると、私たちに伝えてきました。

それから約1時間後の2月4日夜半、HRWのウイリアムス、アムネスティー・インターナショナルの調査員、そして2名の外国人ジャーナリストが、せっかちな詫びの言葉とともにカイロの街外れの路上に解放されました。

一行の安全が確認されると、ヒューマン・ライツ・ウォッチとアムネスティ・インターナショナルはただちに、まだ拘束されている人びとの釈放をエジプト軍に求めました。ウイリアムスはヒューマン・ライツ・ウォッチ日本ディレクターの土井香苗に、拘束中に第75収容所で出会った日本人フォト・ジャーナリストの名前やパスポートの詳細を通知。これを受けて土井は、即座に日本人ジャーナリスト拘束の情報を日本政府やマスコミに訴え始めました。

そして、翌朝の2月5日午前7時半、とうとう、日本人ジャーナリスト、そしてその他拘束されていた人びとも無事に釈放されたのです。28名は今もエジプト革命とその後について調査・報道し続けています。

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